2009年6月17日 (水)

退調

季節のせいか、最近追加した薬のせいか、病の進行なのか・・・調子がいまいちはっきりしない。薬の効きが悪い。なかなか効いてこない。やっと効いたと何かしようとするともう切れてしまう。3年前の『40時間無動体験』以来、少々のことには驚かなくなった。だが、1日(AM6:00~0:00)18時間のうち8時間も、オフ状態があると・・・さすがにまいってしまう。

筋強剛状態になり、まったく動けなくなってしまう。そうなると最悪・・・神よ、仏よ、アラーの神よ、誰でもいいからお助け下されと呻きながら叫ぶ。ちなみに私は名ばかりであるがクリスチャンである。

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2009年6月11日 (木)

最近読んだ本から

臓器移植論議が(臓器移植法改正)かます厳しい。私は臓器移植は医療行為と思っていない。そして『脳死をもって人の死とする』ことに、反対している。先に書いた『臓器移植』の中で何故?そのように思うのか?という明確な答えを述べることが出来なかった。ただ現在の技術では脳機能が全て停止したことを調べることが出来ない。ということしか述べることが出来なかった。最近読んだ本に脳死=人の死ではない。と何故言えるのか?という問いに対して答えられる・・・というかヒントを与えてくれる本に出会った。その中から関連ありそうな文を抜粋してみる。

題名『動的平衡』、著者・福岡伸一

ー命はなぜそこに宿るのかー

「合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、命は環境に適用するよう自分自身の状態を調節できる、これはまさに『生きている』ということと同義語である。」

「仮にその生命が機械的構造を有しているとしても、それは昨日今日作られた機械ではない。38億年をかけて改良を積み重ねた生命の歴史の完成形として存在しているのである。つまり、38億年の最適化の結果なのだ。これを入れ替えたり、作り変えたりしても、完成形をさらに良くすることは簡単ではあるまい。」

「生命は機械のようにいくつもの部品を組み立てただけで成り立っているわけではない。生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツの間にはエネルギーと情報がやりとりされている。

「生命を部品の集合体という物質のレベルでのみ考えると、時間の重要性を見失ってしまう。それだけではない。ある部分を差し替えれば、より効率が上がるとか、特別な効果が期待できるという機械的な思考で生命を捉えてしまう落とし穴もここにある。」

「生命とは機械ではない。そこには機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能ーそれを私は『動的な平衡状態』と呼びたい」

デカルトの罪→生命現象は全て機械論的に説明可能と。この考え方が現在にも及んでいる。生命を解体し、発生を操作し、場合によっては商品化さえ行う。・・・・・効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされ、・・・・このような行為が果たして私たちの未来を幸福なものにしてくれるだろうか?」

「遺伝子組み換え技術は期待されたほど農作物の増収につながらず、臓器移植はいまだ決定的に有効といえるほどの延命医療とはなっていない・・・・・こうした数々の事例は、動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように思えてならない。」

「私たちにできることはごく限られている。生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮できるように、十分なエネルギーと栄養を摂り、サスビナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。」

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2009年5月27日 (水)

臓器移植について

臓器移植について、以前に”断念”することも必要ではないか。と書いた。

最近、現在の臓器移植法を改正しようという動きがさかんになってきた。それはWHOが「海外に渡り臓器移植を受けることを規制する決議を採択しようとしていたからだ。(今回は先送りになったが、いずれ採択されるだろう。)そうなれば、15歳未満の子供の移植の道は閉ざされることになる。日本の現行移植法は「15歳未満からの臓器提供は不可」となっているからである。唯一の道は外国に渡り、臓器を提供してくれる人が現れるのを待つ。ただただ自分に適合したドナーが現れる(死ぬ)のを待つしかない。

15歳以下の子供が移植でしか助からないとわかった時、ある親は1億円近い費用をかけて、外国に行くだろう。しかし、そのようなことが出来る人は限られている。それらの背景があって「臓器移植法」の見直しをしようという動きが、活発になってきたと思う。ほかにも理由はあるだろうが・・・それらすべて書いていると膨大な文章になると思うので敢えて触れないことにする。

私の臓器移植に対する考えは

1、臓器移植は医療行為だと思わない

2、脳死を人の死とすることに反対

上記2点である。だから当然だが自分が脳死状態になっても臓器をあげたくない、移植しか助からない病になっても他人の臓器を貰うこともしない。(眼ならばアイバンクに登録してもいいと思っている。)今回の改正案は4つ出されている。現行法は1997年に竹内基準をもとにして作られた。

脳死の位置付け→本人に脳死からの臓器提供の意思がある場合のみ「人の死」とする。

提供条件    →家族の同意必要

子供からの臓器提供→不可       

となっている。今回4つの改正案が出されているが、現行の法と対極の位置にある案が、採用される可能性がかなり強い。(A案)

A案 脳死の位置づけ→脳死は一律に「人の死」とする。

   提供条件    →本人に拒否の意思がなく家族の同意があれば可

  子供からの提供→〇歳から可能

となっている。このA案をみて恐ろしいと思うのは私だけであろうか?日本での脳死の定義は『脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に(回復不能な段階)停止するに至ったと判定された状態』となっている。脳幹を含む全脳の機能が回復不可能な段階になったことを、すべて調べることが出来るのであろうか?「脳死」と判定され、麻酔なしでメスをいれた途端に血圧が上がり、汗や涙を流したという報告も少なからずある。また「ラザロ徴候現象」も、日本を含む各国で多数、報告されている。

*ラザロ徴候・・・脳死患者が医師の眼の前で突然、両手を持ち上げ胸の前に合わせて  祈るような動作をする。動作後自分で手を元の位置に戻す。

これらは何で、どうして起こるのだろうか?血圧が上がったり、汗を流したりするのは生体反応ではないのか?素人である私にはわからない。日本で1997年に「臓器移植に関する法律」が出来てから、今日まで約80例の脳死移植が行われたという。その80例すべて全脳が不可逆的停止状態であったのだろうか?と思う。立花隆氏は「機能死」から「気質死」に死の定義を切り替えることを提案している。その方法として『脳血流』を調べることをあげている。脳血流が停止すれば脳細胞の死滅が始まる。(気質的な死)その時点を「脳死の定義」とせよと。脳血流の有無を調べることは厳密な死の定義のためには必要だと述べている。脳死は人の死と思わない私には関係ないが、立花氏の考えは妥当ではないかと思う。

脳死は臓器移植を可能にするために出てきた考え方である。古来人間の死は、肺機能の停止、心臓機能の停止、脳機能の停止をもって「死」と確認されてきた。臓器移植に都合がいいように、従来からあった『死の定義』を簡単に変えてしまっていいのだろうか?私は『否』と言いたい。

子供からの提供条件は0歳から可能となっている。子供の脳は現代の科学をもってしてもわからないことが多い。以前テレビで見たこと。凍った湖に子供が落ち沈んでしまった。(4~5歳くらい)1時間後レスキュー隊が救助した時は、完全に心肺停止状態であった。それでも諦めず懸命に蘇生作業を行っていた。しかし、心臓は動かない。懸命に救命に努めている人々の中に、諦めと疲れが出始めていた。そんな状況のなか、子供の心臓が動き始めたのである。常識的に考えるとありえないことかもしれない。また、移植に積極的な考えを持っている医者だったら、もっと早めに「脳死宣告」をしていたかもしれない。最後にその子供が現在何の後遺症もなく元気に遊んでいる姿が映されていた。

上記の例から考えると、子供の脳は現代医学ではわからないほど強い再生力や、秘めた大きな力を持っていると思う。移植医療に積極的な考えを持っている医者と、そうでない医者とで治療打ち切りのタイミングが微妙に違ってくるのではないか?という疑念も浮かぶ。脳死移植後の生存率は、拒否反応を抑えるよい免疫抑制剤の登場でかなり伸びたそうである。(アメリカのデータ・1年後、79,4%、5年後・65,2%、10年後・45,8%)

脳低体温療法の出現

日大付属板橋病院救命救急センター長・林成之教授により確立された療法である。今までなら「脳死」に陥っていたであろう人が助かるようになってきたのである。「蘇生限界点」が動いたのである。従来は脳死に陥るほかなかった多くの患者を救命できるだけでなく、脳機能もかなりの程度まで回復させることができるようになった。(脳死は避けられないと思われた外傷患者75人中56人の救命に成功し、75人中36人は日常生活が可能になるまでに回復した。)その結果、脳死からの臓器不足は増すであろう。脳低体温療法の出現は、「脳死を人の死」と考える人たちに重大kな問題を投げかけていると思う。

断念するということ

私は14年前に「パーキンソン病」と診断された。歩みは遅いが進行する病である。当時読んだ専門書に「年々、進行していきやがて寝たきりになる」と書かれていた。原因も分からない、治療法もない進行性の病ということを考えると、暗澹とした気持になった。しかし10年も経てば、何らかの治療法が見つかるだろう。とかすかな希望を持った。それから14年経ったが、今日に至るまで原因はおろか、治療法も見つかっていない。(2~3種類の)症状を抑える薬が出たのみである。原因がわからなければ治療法も確立出来ないだろう。脳のことはなかなかわからない。ならばいくらジタバタしても始まらない。なるようにしかならない。このような病になったことを仕方ないと諦めるか(断念)、開き直るか、どちらかしかないのである。

現代の医学ではどうしようもない病はたくさんある。1年で10歳づつ身体が老化していく早老症」の子供のドキュメンタリー番組を見た。全世界でも800人ほどしかいない病だとか・・・ふつうは生まれてから7、8年で死んでしまうそうである。彼女は高校まで行き卒業を目前にしてなくなった。これほどまで生きた例はないとのことであった。その彼女が同じ病のお友達から言われた言葉。

「どれだけ長く生きたかは、問題ではないよ。どう生きたかが大切だよ。」

臓器をあげたいと思う人は、あげればいいと思う。もらうのもあげるのも、個人の自由意思においてなされるならば・・・。最後の最後まで懸命に患者の命を救うことに最善の努力をする医者ならば・・・。これだけはさいてい守ってほしいと思う。

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2009年5月 8日 (金)

音楽の(ピアノ)の効用

7日朝、中古だが新顔のピアノがやってきた。それは新品に負けないくらい黒く輝いていた。イス、夏、冬カバー、手入れ用品、インシュレーター(ピアノの下に敷く物)21,000円はサービス、搬送料半額(16,000円→8,000円)、ピアノ本体(315,000円→283,500円)、下取り10,000円、合計すると7万円以上安くなっている。うほほほ・・・・。でも単純に喜んでばかりはいられない。我が家にとってかなりの出費である。今よりさらに切り詰めた生活を心がけなくては・・・でも歌は様々な効果がある。例え1食抜いても歌を歌うことの方が精神衛生上大切だと思う。昔の歌を歌うことによって認知症の進行を遅らせることが出来るという報告もされている。

絵手紙ではないが「下手がいい、下手でいい。」という気持ちで、少々音が外れても気にしないで、大きな声を出す。ストレスもある程度解消され、気分転換になる。明日は「ピアノ開き」と称して母の友達、私の友達に声をかけている。PD病の交流会で知り合ったSさんは、最近調子がよくなくて落ち込んでいる。参加してくれるとよいのだけれど・・・。

夜、Oさんから電話あり「Sさんと一緒に行きます」と。わーい!よかった!母の友達のMさんは用事があり来られないとのこと。残念!部屋がかなりちらかっている。それから12時前まで母と片付けをする。(といっても、押入れの中に押し込むだけ・・・あまり押し込み過ぎると開けた途端に崩れ落ちてくる可能性があるので、分散して押し込む)

午後1時過ぎ、OさんとSさん到着。Sさん来てくれてうれしい。2人とも我が家は初めてである。市内から少し外れているので、いつでも気軽に来てと言いたいが・・・難しい。母は張り切っている。いつもと人が違ったよう。お茶とケーキを食べ終わった頃、母の友達から電話あり「これから3人で行きます」と。アリャリャリャ・・・急いでケーキの片づけをする。ほどなく3人が来宅。5人になり急ににぎやかになる。母と私をいれると総勢7名。早速、皆で唱歌、抒情歌を立て続けに5曲歌う。母、つるつるつると歌詞が出てきてみんな「よく、覚えているね」と驚く。1時間半ほど歌い、Mさん達3人は帰る。その後Sさん、Oさんと薬の話などして、5時過ぎに2人帰る。今日1日、母はとても輝いていた。特に歌を歌っている時の母は生き生きとしていた。音楽の持つ効用は大きいことを実感した1日であった。

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2009年5月 7日 (木)

ピアノの寿命?

1年前に9000円で手に入れたピアノが、どうしようもないほど狂ってきた。素人が聞いてもわかるほど音が・・・。ペダルも踏んでも響かなくなった。1年でこんなになるとは思わなかった。1年前に調律してもらった時、中をのぞいてみたが張っている弦も、フェルトでできているハンマーも想像していたより状態がよかったのである。調律師の方も「自分で弾いて楽しむのなら、これでいいですよ。」と言っていたのである。

色々、原因を考えてみる。しかしこれといった理由は思い当たらない。ピアノはかなり古い物でもちゃんと手入れをすれば、かなり寿命の長い楽器である。横から鍵盤を見てみる。ガタガタになっている。アリャリャリャ!!これでは、調律してもらっても、またすぐ狂うだろう。下を開けて見る。張っている弦が錆びかけているではないか!考えてみればここは海辺の近くなのである。常に海側から風が吹いてくる。自転車や、雨戸なども塩がついて白くなっている。風の中に塩分が混じっているのだ。いつもピアノの蓋を開けっぱなしにしていたのだから、当然の結果である。ピアノは音を(ね)をあげてしまった。

このままこのピアノを弾き続けることは出来ない。インターネットで中古ピアノを検索してみる。ヤマハだとどんなに安くても、30万以下では滅多に出ていない。たまに30万以下で出ているが製造年月日をみると1975年以前に作られたものばかり・・・ためいきが出てしまう。以前、知人のお宅に行った時、ほこりをかむった娘さんのピアノがあったのを思いだした。迷ったがダメもとで電話をしてみることに・・・。早速電話をする。ピアノが復元不可能な状態になったこと、近所で歌の好きな(唱歌、抒情歌)方を集めて『歌いましょう会』を始めるつもりであることなどを、手短に話し、30万円で譲ってと言った。どう見積もってもそれだけしか出せなかった。返事は「まだ、娘が時々弾いている」と・・・。それでは仕方ない。「自動演奏機能もついている」と・・・。汗が出てきた。買えば確実に100万円以上はするピアノである。それを30万円で譲ってと・・・・・・もっとよく考えてから言えばよかった。いい歳をしていつまでもオッチョコチョイな性格は直らない。

以前、短気を起して売ったピアノ・・・があれば・・・そうだ、そこに聞いてみよう。早速電話をする。以前お宅にピアノを買い取ってもらったことがある旨を告げ「30万円くらいでお買い得な製品はないですか?」すると、なななななんとゴールデンウィーク期間中『中古ピアノ特別セール』をするというではないか!いつもよりかなり安く売り出すとのこと。早速展示場に行く旨を告げる。するとM楽器の方がさっそくパンフレットを持ってきてくれる。ウホホホホ・・・。こんな機会はそうそう滅多にあるものではない、おまけに足の心配までしてくれる。会場まで会社の車で送迎してくれたのである。

売り出しのピアノが15台ほど並んでいる、「そうぞ、弾いてみて下さい。」の声に片端から弾いてみる。中に1台今まで自分が馴染んでいた音色の出るピアノがあった。「これがいい」と言うと「よい物を選ばれましたね。それは今度の売り出しのなかで1番お買い得のピアノなんですよ。」と言われた。社長さんも出てきて中を開けて「他のと比べてみて下さい。同じ製造年でもあちらのと値段が、かなり違うでしょう。これは手入れもよくほとんど傷みがないということです。本当によいものを選ばれましたね。」と言った。少しは誇張もあるかもしれないけれど、真剣な顔つきからすると・・・よい買い物をしたと思った。かくして1年間私を楽しませてくれたピアノは1万円で引き取ってくれることになった。1年間ありがとう!

明日、我が家に新しい(中古だが…新顔の)ピアノがお目見えする。今度はどんな音色で私を楽しませてくれるか?ワクワクしている。

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2009年4月23日 (木)

移りゆく・・・自然

 「水ぬるみ桜前線北上す」

桜の花が散り、つつじの咲く季節になった。太陽がサンサンとふりそそいでいる。こんな時は家の中にじっとしていられない。日焼けなんて気にしないで外に飛び出していく。最初に草取りをする。雑草は抜いても抜いても生えてくる。(雑草という草はない。どれにも名があるのであろうが、知らないからひとくくりに雑草と呼んでいる。)根くらべである。少し手を抜くと瞬く間にはびこる。散歩をしているとコンクリートからも沢山の草花があちこちに生えている。それらの草花を見るたびに「よく、頑張っているねー。」と思う。山の方からは鶯の声が聞こえてくる。鳴き方もずいぶん上手になっている。最初は「ホーホケッホケッホケッ」と聞こえていた。今は「ホーーホケキョッ、ホーーホケキョッ」鳴いている方向に目をやれば山は淡い黄緑色に変わっている。全山若葉だ。やがて間もなく「鮮やかな緑」に変わっていくだろう。

人間がいくらウロウロ、オロオロしようと自然は、そんな人間界のことなど置き去りにして、時が来れば芽を出し、花をつけ、種を作り、次世代に命をつないでゆく。黙々と繁茂していく。なぜ、人間は争うことを繰り返すのだろう。今、1冊の本を読んでいる。人間とは(自分は)どこまで残酷になれるのだろう?数ページ読んでは本を閉じる。怖い本である。しかし、人間の(自分の)ことを知るためにも読まなければいけない本だと思う。読む義務がある(ような気がする本である)しかし、なかなか前に進めない。それは自分の中にも同じものを抱えていると思うから・・・である。

その本はツナミンさんのブログで紹介されていたものです。興味のある方はどうぞ。(読むべきと書こうと思ったけれど、他人事としか思えない人が読んでも時間の無駄になるだけと・・・。思い上記のように書きました。)

 http://blog.goo.ne.jp/tsunamin_2009

      Desperado  出口がなければ穴を掘れ

    『沈黙を破る』 土井敏邦著

ちなみに、最初に書いた俳句もどきは、季語が二つ重なっているので添削指導されるとしたら「季語重なりはご法度です。」とバツ印をつけられること必至。

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