« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月の記事

2009年6月17日 (水)

退調

季節のせいか、最近追加した薬のせいか、病の進行なのか・・・調子がいまいちはっきりしない。薬の効きが悪い。なかなか効いてこない。やっと効いたと何かしようとするともう切れてしまう。3年前の『40時間無動体験』以来、少々のことには驚かなくなった。だが、1日(AM6:00~0:00)18時間のうち8時間も、オフ状態があると・・・さすがにまいってしまう。

筋強剛状態になり、まったく動けなくなってしまう。そうなると最悪・・・神よ、仏よ、アラーの神よ、誰でもいいからお助け下されと呻きながら叫ぶ。ちなみに私は名ばかりであるがクリスチャンである。

| | コメント (0)

2009年6月11日 (木)

最近読んだ本から

臓器移植論議が(臓器移植法改正)かます厳しい。私は臓器移植は医療行為と思っていない。そして『脳死をもって人の死とする』ことに、反対している。先に書いた『臓器移植』の中で何故?そのように思うのか?という明確な答えを述べることが出来なかった。ただ現在の技術では脳機能が全て停止したことを調べることが出来ない。ということしか述べることが出来なかった。最近読んだ本に脳死=人の死ではない。と何故言えるのか?という問いに対して答えられる・・・というかヒントを与えてくれる本に出会った。その中から関連ありそうな文を抜粋してみる。

題名『動的平衡』、著者・福岡伸一

ー命はなぜそこに宿るのかー

「合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、命は環境に適用するよう自分自身の状態を調節できる、これはまさに『生きている』ということと同義語である。」

「仮にその生命が機械的構造を有しているとしても、それは昨日今日作られた機械ではない。38億年をかけて改良を積み重ねた生命の歴史の完成形として存在しているのである。つまり、38億年の最適化の結果なのだ。これを入れ替えたり、作り変えたりしても、完成形をさらに良くすることは簡単ではあるまい。」

「生命は機械のようにいくつもの部品を組み立てただけで成り立っているわけではない。生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツの間にはエネルギーと情報がやりとりされている。

「生命を部品の集合体という物質のレベルでのみ考えると、時間の重要性を見失ってしまう。それだけではない。ある部分を差し替えれば、より効率が上がるとか、特別な効果が期待できるという機械的な思考で生命を捉えてしまう落とし穴もここにある。」

「生命とは機械ではない。そこには機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能ーそれを私は『動的な平衡状態』と呼びたい」

デカルトの罪→生命現象は全て機械論的に説明可能と。この考え方が現在にも及んでいる。生命を解体し、発生を操作し、場合によっては商品化さえ行う。・・・・・効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされ、・・・・このような行為が果たして私たちの未来を幸福なものにしてくれるだろうか?」

「遺伝子組み換え技術は期待されたほど農作物の増収につながらず、臓器移植はいまだ決定的に有効といえるほどの延命医療とはなっていない・・・・・こうした数々の事例は、動的な平衡系としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように思えてならない。」

「私たちにできることはごく限られている。生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮できるように、十分なエネルギーと栄養を摂り、サスビナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。」

| | コメント (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »