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2009年7月の記事

2009年7月15日 (水)

命の価値

人間の価値は何によって決まるのだろうか?

昨日、『新臓器移植法』が成立した。直前まで「慎重な審議の必要がある」とか「子供脳死臨調の設置を」とか「一律に脳死を人の死としてもいいのか?」などと、反対の姿勢を示していた議員達も沢山いた。解散、総選挙が現実的になってきたら『人の命より政治日程のほうが大事』なのだ。衆議院では自民党202人が賛成。参議院でA案の投票総数、220票(人)のうち賛成138票、反対82票で、「脳死は一律に人の死」とする恐ろしい『臓器移植法』が成立。『子供脳死臨調設置法案』はA案成立により採決されないまま廃案となった。

A案に賛成票を投じた議員は、自分か身内の者が「脳死状態です。臓器提供を」と言われたら「はい、喜んで提供いたします。」と言えるのだろうか?言わなければならない、言う義務があるだろう。「脳死は人の死であり、本人の意思が不明な場合でも、家族の承認で、しかも0歳児からも臓器摘出が出来る」A案に賛成したのだから言うべきである。

このA案の臓器移植法が成立したことは、移植を薦める患者団体、医者にとっては喜ばしいことかもしれないだろうが、人工呼吸器で生きている人達や、難病を抱えている人達、その他、障害を持っている人間にとって他人事とは思えないのである。病で何も出来なくなれば人間としての価値はないと思われることになるのではないか。という不安が大きくなるのである。

何も出来ないから人間としての価値がないのであろうか?人間の価値とは?何をもって価値に差をつけることができるのだろう?何の役にも立たない人間などいない、一人としていない。臓器移植が脳死段階で可能になれば、人工呼吸器をつけた人間は移植に熱心な医者からみれば、死人に見えるだろう。いわゆる何の価値もない存在だと・・・。「そのような人間はさっさと臓器を取り出してしまおう、そのほうが世のため、人のために役に立つ」と思っても不思議ではない。しかし、脳死と宣告された子供は段々と体重も増加し、髪も伸び、身長も伸びていく。そんな様子を見ている親にむかって「脳死ですから臓器提供を」などと言えるだろうか?親からすれば医者が禿鷹かハイエナのように見えるだろう。

現在、(日本国内で)臓器移植でしか助からない人がどれくらいいるのか?失念したが、千人もいなかったと思う。他の病気で助かるみこみのない、死に直面している人は数え切れない。「臓器を!早く臓器を」とばかり言う患者さん、及び家族の方たちのエゴイステックな考えは傲慢なような気がする。あえて言うならばたった千人ばかりの為に、従来からあった「死の定義」をそのように簡単に変えてしまっていいのだろうか?臓器は部品ではない。自動車の部品のように簡単に付け替えられるほど、単純な物ではないのである。臓器といえどもその人に合った個性を持ったその人の一部分なのである。拒否反応が如実にそのことを物語っているではないか。現在の人間の身体は38億年をかけて最適化されて出来たものである。移植しなければ助からない病になったなら運命と思って受け入れる他はない。他人の死を待って、脳死になればなるべく新鮮な臓器を取り出すような行為は医療行為とは、どうしても思えない。

人間の生・死より政治の日程を優先させて、いとも簡単に「死の定義」を替えてしまう政治家。その節操のなさに情けなさを通り越して、呆れるばかり。何が大切か、どの法案が優先されるべきか?小学生でもわかりそうなことがわからない程度の低い政治屋が、こんなにも多くいる、日本丸は沈没してしまうのではないかと・・・不安になります。

廃案となった主な法案

・被用者年金一元化法案

・労働者派遣法

・公務員制度改革関連法案

・障害者自立支援法改正案

・貨物検査特別措置法案  などなど

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